JPR海外支援の総集編(2005〜2019)

Japan Paramedical Rescue



JPR(日本国際救急救助技術支援会)が発足した経緯
 それは、「一枚の名刺」からでした。
 今から16年前の2003年春、正井 潔氏が神戸市中央消防署在職中、若い署員から「母がアフリカで救急システムを立ち上げようとしている人を知っている」と言われ、「それじゃ、私の名刺でも預けて!」と軽い気持ちで名刺を渡したそうです。

 数ヵ月後の7月末に「突然のメールで失礼します。五十嵐と申します」と、大量の文面でメール文が着信。

 内容は「ボランティアでアフリカのザンビアに救急システムを立ち上げつつあるが、プロの救急隊員としてアドバイスをして欲しい。」と言うものでした。
「アフリカのザンビアには、救急システムが無いため交通事故では通りすがりの車に、まるで丸太木を乗せるようにして病院に搬送しており、人間の尊厳が守られてない状況にある」と言う、ザンビアの救急事情が延々と記されていたそうです。

 以来、週に3〜4通のメール着信が続きました。この1枚の名刺から、すべての始まりだったのです。
 続きは=☆JPRホームページ内「設立経緯」で、詳しく記載しています。


2005年1月17日



 2004年8月、正井氏は、ザンビアでの単独支援終了後、帰国する飛行機の中で「一人で指導するには限界がある。」と、チームでの指導の重要性を痛感しました。

 またザンビア側からも「来年も指導に来て欲しいと」各関係機関から熱望され、これに何とか応える方法は無いものかと考えあぐねた結果、「発展途上国に救急救助技術を支援するNGOの設立」を思い立ったのです。

 それが、「日本国際救急救助技術支援会」JPRでした。

 日本に帰国後、自らの思いを熱く語るなどして、有志を募った結果、多くの賛同者や協力者を得ることが出来ました。

 そして阪神・淡路大震災の10年目にあたる、2005年1月17日に、JPRを設立したのです。
 英語名: Japan International Paramedical RescueTechnical Cooperation Corps
 表示名: Japan Paramedical Rescue
 JPRの誕生です。
 ※画像はJPRロゴマークとリンクバナーです。
 ☆参考=JPRの沿革


ザンビア共和国・ルサカ市
 2005年2月17日から26日までの10日間、正井氏を含む救急3名、救助3名の支援チームを結成し、JPRとして初めての海外支援が実施されました。

 ☆第1回「ザンビア救急救助技術支援」

 約1年半後の、2006年11月19日から27日の9日間、JPR会員とともに総勢16名が自費で支援に参加し、救急・救助の研修と訓練を実施するとともに、消防車両や救急車両、消防資器材などを寄贈しました。

 訓練最終日には、当時アフリカ大陸では、初めての「大規模災害対応訓練」を実施しました。

 ☆第2回「ザンビア救急救助技術支援」

 総勢16名の支援チームは、15年が経過したJPR海外支援の中でも、最大の参加人数でした。
 


スリランカ・ゴール市
 ザンビアの支援と平行して実施された、スリランカ・ゴール市への支援。

 第1回のザンビア救急救助技術支援終了後の2005年7月、JPRではJICA兵庫の市民参加協力事業(海外プログラム)の支援を受けて、スリランカのコロンボ市およびゴール市を対象に、津波の被害とJPRが実施する救急・救助の技術支援が行えるかどうかを調査しました。

 当時のスリランカでは、2004年12月26日、スマトラ沖で起こったマグニチュード9.0の大地震により発生した、大津波がスリランカを襲い、少なくとも46,000の人が死亡したと言われていました。そのために、支援を実施する前に、正井氏が現地調査を行ったのです。
 そして翌年の2006年2月に、総勢9名のJPR会員で結成された支援チームが、海外支援2ヶ国目となるスリランカ・ゴール市に全日程6日間で「救急救助技術支援」を実施したのです。

 しかし、スリランカの技術支援は、この1回の支援で終了することになりました。
 支援自体は大成功でしたが「寄贈したはずの消防車両が届かない」と言うような、様々なトラブルも発生し、発展途上国への支援の難しさや、困難さを実感する支援にもなったのです。

 ☆第1回「スリランカ・ゴール市救急救助技術支援」
 ※この時点では、まだJPRの帽子はありましたが、制服や活動服といったユニフォームは未完成でした。

 


インドネシア共和国・バンジャルマシン市
 海外支援3カ国目である、インドネシアへの支援経緯。

 2006年、JPRは兵庫県の御配慮で、ザンビアに救急車・消防車を計9台贈ることが出来ました。

 しかし、まだ数台の消防車両が残り、JPRの力では如何ともする事が出来ず難渋している時、兵庫県を介して消防車両を寄贈する団体をご紹介頂きました。

 その際に、消防車両を寄贈するだけでなく「JPRからの(直接の)技術支援が重要であり、是非インドネシアに協力願いたい」とのご依頼があったのです。
 この依頼により、2007年9月にJPRの正井氏が単身、先行調査としてインドネシアのバンジャルマシン市を訪問したことから、インドネシアへの支援が始まりました。

 宗教や文化の違いなどを考慮し、2007年7月に先行調査、2007年9月に本格調査と、チーム派遣前に入念な調査を行い、日本国内においても、JPR会員のため研修会などを開催し、事前準備をしました。

 2008年2月、「第1回インドネシア技術支援」では、TBSの「夢の扉」のスタッフとタレントの小林恵美さんが同行され、JPRの支援の様子が全国ネットで放映され、多くの方々にJPRを知って頂く事ができました。

 ☆2008年2月 「第1回インドネシア技術支援」
 ☆2008年5月 「第2回インドネシア技術支援」
 ☆2008年8月 「第3回インドネシア技術支援」
 ☆2008年11月 「第4回インドネシア技術支援」

 2008年に、約3ヶ月の間をおいて、合計4回の支援を実施、第4回目の支援では、支援の集大成として、ザンビアに引き続きインドネシアでも「大規模災害対応訓練」を実施しました。

 


インドネシア共和国・スラバヤ市
 2008年、バンジャルマシン市への支援は終了、翌年の2009年は同じインドネシアのスラバヤ市を支援することになりました。

 スラバヤ市への支援は、神戸国際協力交流センター(神戸市の外郭団体)からの要請に基づくもので、その依頼により2009年2月、バンジャルマシン市と同じように、事前調査を実施。

 バンジャルマシン市と同じように、スラバヤ市にも計4回の技術支援を行い、最後に集大成として「大規模災害対応訓練」を実施したのです。
 ☆2009年4・7・8・11月 「第1回〜第4回インドネシア・スラバヤ市技術支援」
 ※この時すでに、海外支援4カ国目であるカンボジアには、支援が開始され、2カ国同時支援と言う状況でした。
 


カンボジア王国・プノンペン市(1)
 JPR設立のキッカケにもなった縁(一枚の名刺)と、初の長期滞在型支援の開始。

 この一枚の名刺からの縁で、当時カンボジアで活動していた他のNPO団体の関係者から、直接 正井氏に「カンボジアを視察してほしい」と言う依頼がありました。

 そして、2008年6月正井氏が単身カンボジアに赴き、プノンペン市を視察したのがカンボジア支援の始まりでした。

 この時は、インドネシアのスラバヤ市支援と重なり、同時進行となっていました。

 先行調査は、6月と12月の2回実施。

 その後、これまでの海外支援と同じように、日程が約一週間程度の短期型支援で「救急救助技術支援」を行っています。

 ☆2009年3月「第1回カンボジア救急救助技術支援」
 ☆2009年6月「第2回カンボジア救急救助技術支援」
 ☆2009年9月「第3回カンボジア救急救助技術支援」
 ☆2009年10月「第4回カンボジア救急救助技術支援」

 そして、これらの支援やカンボジアの現状を目の当たりにしたことがキッカケとなり、カンボジアに「消防組織を創設しよう」「救急医療を立ち上げよう」と言う、壮大な夢が芽生えたのでした。

 JPR設立から5年後の2010年に、初めて現地に長期滞在して指導を行う「長期滞在型支援」を決意するに至ったのです。
 ※掲載している写真は、カンボジア支援の初期の頃です。
 


カンボジア王国・プノンペン市(2)
 2010年5月、カンボジア長期滞在型支援の開始。

 カンボジア初の災害派遣ユニット、Brigade70 Rapid RescueCompany: RRC711部隊を設立。
 当初1年間は、正井氏、西山氏の2名が長期滞在し支援を実施。

 この間にも、JPR会員たちが応援チームを結成し7・8・11月と計3回カンボジアに赴き、「短期支援」として長期滞在している2名とともに指導に参加しています。

 支援当初は、短期支援をしていたとは言え、すべてが「何も無い状態」「ゼロからの出発」であり、長期支援開始直後から、困難に継ぐ困難、苦労の連続で、何度も途中で「もうやめようか…」とか「日本に帰ろうか」と、思ったそうです。
 言葉や文章では、表現できませんが、発展途上国での支援の難しさや、思いもしない裏切りなどから、悔し涙を流したり、言いようの無い無力感や憤りを感じたこともシバシバあったようです。

 1年後に西山氏が帰国した後は、正井氏が単身で長期支援に臨みましたが、約8年間のあいだに不定期ではありますが、JPR会員達が支援チームを結成し、正井氏のもとへ応援指導に向かっていました。

 2019年現在のRRC711消防部隊は「完成した姿」で、大活躍していますが、カンボジア支援当初は、決して順風満帆ではなかったのです。
 ☆正井潔、そして海外支援
 ☆JPRの支援物語
 ☆伝承される技術
 ※掲載している写真は、カンボジア支援の中期です。
 


カンボジア王国・プノンペン市(3)
 《 2010年から2019年 》

 2010年の長期支援開始当初から、約10年が経過した「現在」。

 Facebookやホームページには、ほんの数ページにしか満たない内容で、様々な出来事を紹介していますが、訓練や研修内容によっては、毎日、毎日、時には同じことを繰り返す日々が続いたこともあったようです。

 また、救急救助の知識や技術、火災の消火方法や消防戦術と言った、本当の意味での「消防部隊」マルチな災害に対応する「災害派遣ユニット」の完成に向けて、徐々に、徐々にと形にして行く、非常に根気の要る作業だったようです。
 RRC711部隊の隊員たちには、「人の命を救う」、「他人のために奉仕する」と言った崇高な使命感やプロ意識、自分たちが所属しているRRC711部隊に誇りを持ってもらおうと、時に怒号が飛んだり、激を飛ばし、叱咤激励するのですが、初期のカンボジア側参加メンバーは、ほとんど辞めてしまったそうです。

 しかし、メンバーの入れ替わりがある中、徐々に日本式消防精神である「JPRスピリット」そして、「マサイスピリット」を理解する隊員が現れだし、メンバーも固定されてくるようになったのです。

 ☆カンボジア支援・アーカイブ
 ※ 2008年から2018年までの、主な訓練や出来事を掲載しています。

 ☆カンボジア編
 ※掲載している写真は、カンボジア支援の後期から現在です。

 


カンボジア救急救助技術支援 「夢の実現」
 決して、最後まで諦めることのなかった「夢」の実現。

 カンボジアに、東南アジア初の「救急・救助、消防・防災のプロ組織である「消防部隊」「災害派遣ユニット」を創設し完成することが出来ました。

 しかし、支援当初の目的は、達成されましたが、「これで終わり」ではありません。

 ボーダーレス化した現代、災害種別も特殊災害やテロを含め多種多様化し、消防においても、日々進化する知識や技術、そして装備などを取り入れて行く必要があります。
 それは、東南アジアでも同じです。

 そのため、JPRからの支援(日本人の支援)は、これからも継続して行きます。

 また、消防のプロ集団として、RRC711部隊でもカンボジアの風土に合った、独自の技術をドンドン開発し、あみ出して行く事でしょう。
 ※現に、消火方法や救助方法など、RRC711オリジナルが出来ています。

 カンボジア国民が信頼し頼られるRRC711ですが、私たちJPR会員も、彼ら彼女らを誇りに思っています。

 今回の成功例は、苦悩や苦労、困難と言ったマイナス面を、JPRとRRC711が共に歩んできた道のりと、その過程が、その全てにおいて、マイナス面よりもプラス面が上回っていたからです。

 年月や時間とともに、どんどん育まれてきた信頼関係と友情。

 同じ目標に向かって進む彼ら彼女らの姿が、変化し進化する過程を見守ってきたこと。

 共にしてきた喜びや感動、成功したときの達成感や充実感などなど。

 そして、何よりも単独で長期支援に臨んだ正井氏の、「必ず夢を実現するんだ!」と言う、強い決意と信念が、様々なトラブルで発生した時の「諦める心」を、上回っていたことは間違いありません。

 今では、苦労に苦労を重ねた10年の時が、RRC711の彼ら彼女らの心を動かし、プノンペン市民やカンボジア国民の心までも動かそうとしています。

 平成31年2月24日
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 以上、簡単ではありますが、JPRの成り立ちから、カンボジア支援までの15年間を紹介しました。

 文責:JPR広報 日 浦

 

 




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